試着室へ入ると、早速イレーネは採寸するために肌着姿になった。すると、2人の女性店員が口々にイレーネを褒め称えた。「まぁ! こんなに細いウェストを見るのは初めてだわ!」「手足も細いのに、足には適度に筋肉がついているし……これなら高いヒールの靴を履いても歩けそうだわ!」「筋肉よりも、スタイル! なんてスタイル抜群なんでしょう! これならコルセットも必要ないくらい!」2人の女性店員は興奮が止まらない。けれど、イレーネのスタイルが良いのは当然のことだった。何処へ行くにも歩いていくし、質素な食事生活をおくっていたのだから。2人の女性店員がイレーネのスタイルを褒め称えている姿をブリジット達は悔しげに見ている。「な、何よ……あんなの。た、ただちょっと細いだけじゃないの……」「だ、だけど出るところは出て、引っ込んでる部分はちゃんと引っ込んでるわよ……」しかし、ブリジットは意地悪そうな笑みを浮かべてアメリアの耳に囁く。「でも、あんな貧しそうな女にこのブティックの服が買えるはずないわ。身の程知らずでこの店に来たのだから、恥をかくに決まっているわよ」「そ、そうよね。買えるはず無いわよね。値段を聞いて驚くあの女の顔が見ものだわ」コソコソと話し合う2人をよそに、店員によるイレーネのドレス選びが始まった。「どうです? こちらのドレスは今最先端のドレスですよ。特にウェストの細さを強調できるドレスです」「こちらのデイ・ドレスはとても上品なデザインです。バッスル部分が特徴なのですよ」次々と着せ替え人形のごとく、様々なドレスを試着させられるイレーネ。しかし、そのどれもがスタイル抜群なイレーネに良く似合っていた。当然、ブリジットとアメリアは面白くない。「ふ、ふん。いくらスタイルが良くたって、買えなければどうにもならないのだから」「ええ、そうよ。あの店員達ったら、ドレスを合わせるばかりで肝心な彼女の懐事情を忘れているのかしら」その後もイレーネの試着は続き……12着目の試着を終えた頃――「あの、もうそろそろこのあたりで大丈夫です」イレーネが女性店員2人に声をかけた。「え? さようでございますか?」「まだまだお客様にお似合いになりそうなドレスが沢山ありますのに……」女性店員たちは残念そうな表情を浮かべる。「ええ。それで今まで試着したドレス、合計でおいくら位
「まぁ! この小切手は……! は、はい! すぐにお包みいたしますね!」「お買い上げ、ありがとうございます!」2人の女性店員はペコペコと頭を下げる。「いいえ。こちらこそ素敵なドレスを選んでいただき、ありがとうございます。このお店に来て、本当に良かったですわ」笑顔のイレーネの姿に、青ざめるのはブリジットとアメリアだった。「ええっ!? ど、どういうことよ! あんな貧乏そうな女が平気で小切手を手渡すなんて!」アメリアがブリジットに小声で詰め寄る。「そ、そんなこと聞かないでよ! 私が知るはず無いでしょう! それにしても……あの女、一体何者なの……だけど……」気の強いブリジットは、店員たちがイレーネにペコペコする姿が気に入らない。「……何だか面白くないわ。これ以上ここにいても不愉快よ、帰りましょう。アメリア」「え? いいの? 彼女に一言も声をかけずに帰っても」「いいのよ。だって私たち、あの女の名前だって知らないじゃない」フンと腕組みするブリジット。今もイレーネは女性店員たちと親しげに会話をしている。「言われてみれば確かにそうね……それじゃ、帰りましょうか?」「ええ、帰りましょう」そしてブリジットとアメリアは談笑するイレーネたちに声をかけずに、店を後にした。もう少し店に残っていれば、もっと驚きの事実を知ることになったはずだったのに……。そんなことは露とも知らず、店員はイレーネに次の商品を勧める。「ところで、お客様。ドレスだけではなく、他にも靴やアクセサリーも当店でそろえられてみてはいかがですか?」「ええ、そうです。当店には有名なジュエリーデザイナーに靴職人も抱えているのですよ?」上客を逃してなるものかと、店員たちの接客は続く。「そうですね……一式、全て揃えられるならこちらでお願いします。私、どうしても自分の価値を上げなければならないので」頷くイレーネ。普段の彼女なら絶対にこのような買い物はしない。しないのだが、今回だけは特別だった。何しろ、ルシアンの祖父に認めてもらうために自分の価値を上げなければならないのだから。「ええ! お任せ下さい!」「私たちの手にかかれば、トップレディにだってなれます!」何とも頼もしい女性店員の言葉にイレーネは笑顔になる。「本当ですか!? ありがとうございます!」こうして、その後もイレーネの買い物
イレーネがマダム・ヴィクトリアの店を出たのは15時を過ぎていた。「まぁ……もう、こんな時間だったのね。どうりでお腹が空いたはずだわ」祖父の形見である懐中時計を見ると、イレーネはため息をつく。「どうしましょう……このままマイスター家に戻っても、夕食までは程遠いわね。それにしても試着するだけなのに、こんなに体力を使うとは思わなかったわ」1日2食の生活は慣れていた。ただ、今回は慣れない試着作業でお腹を空かせてしまっていたのだった。「何処かで軽く食事を済ませてからマイスター家に戻ったほうが良さそうね。何か食べるものを用意して下さいなんて言ってご迷惑をかけるわけにはいかないし」本来であれば、イレーネはルシアンの内定の妻。リカルドに軽食の要望を伝えれば、すぐにでも食事を用意してもらえる立場に自分があることを理解していなかったのだ。「さて、今度は食事が取れるお店を探そうかしら」そしてイレーネは鼻歌を歌いながら、マダム・ヴィクトリアの店を後にした――****16時半――「……はぁ〜……」書斎で仕事をしていたルシアンがため息をつく。「ルシアン様、またため息ですか? 既に7回目になりますよ? お茶でも飲まれてはいかがですか?」ルシアンにお茶を勧めるリカルド。「リカルド……」「はい、何でしょうか?」「お前は何回俺に茶を飲ませようとする? もうすでに5回目になるぞ?」恨めしそうな目でリカルドを見る。「やはり……おひとりで行かせるべきではなかったのではありませんか?」その言葉に、ルシアンの肩がピクリと動く。「一体、何の話だ?」「とぼけないで下さい、イレーネさんのことですよ。あの方のことが心配で、仕事もろくに手がつかないのではありませんか? 先程から同じ書類ばかり目を通されていますよ」「ち、違う! 書類を見直していただけだ!」リカルドに指摘され、慌ててルシアンは書類を取り替える。「全く、ルシアン様は素直になれないお方ですね……正直にイレーネさんのことが心配だと言えばよいではありませんか? だから本日は外出せずに、こちらでお仕事をされているのですよね? 昼食の時間も心、ここにあらずといった様子でしたし」するとルシアンも言い返す。「そういうお前こそ、イレーネ嬢のことが心配でたまらないのではないか? 今日は用もないのに、何度もエントランスまで
イレーネ・シエラは今、とても追い詰められていた――「一体どうするつもりなんだ? イレーネ。このままでは後半月でこの屋敷は差し押さえられるぞ?」イレーネと幼馴染。弁護士に成り立ての栗毛色の髪の青年、ルノー・ソリスの声が部屋に響き渡る。何故、彼の声が響き渡るかというと、この屋敷にはほぼ家財道具が無いからであった。「ええ、そうよね……どうしましょう。まさかお祖父様が、こんなにも借金を抱えていたなんて少しも知らなかったわ。そんなに派手な生活はしていなかったのに……」古びた机の上には書類の山が置かれている。イレーネはブロンドの長い髪をかきあげながら書類に目を通し、ため息をついた。その書類とは言うまでもなく、祖父……ロレンツォが遺してしまった負債が記された書類である。「イレーネ、おじいさんを亡くしてまだ三ヶ月しか経過していない君にこんなことを言うのは酷だが……もう爵位は手放して誰か金持ちの平民に買い取ってもらおう。そうすればこの屋敷だけは残せる」「ええ。そうなのだけど……お祖父様の遺言なのよ。絶対に男爵位だけは手放してはならないって」イレーネは祖父の遺した遺言書を手に取り、ため息をつく。「それはそうかも知れないが……住むところを失っては元も子もないだろう? 大体君は病気で倒れたおじいさんの看病をするために、仕事だって辞めてしまったじゃないか」現在二十歳のイレーネは花嫁修業も兼ねて、エステバン伯爵家でメイドとして働いていた。しかし、半年ほど前に祖父が病気で倒れてしまったために仕事を辞めて看病にあたっていたのだ。「仕方ないわ。ソリス家はお金が無くて使用人たちは全員暇を出してしまったのだから。私がお祖父様の看病をするしかなかったのだもの。それにお祖父様は子供の頃に両親を亡くした私を引き取って今まで育ててくれたのよ? 遺言を無下にすることは出来ないわ」「だけど、君は今まで必死になって頑張ってきたじゃないか。家財道具を売り払って、おじいさんの治療費にあててきただろう? その結果がこれだ。もうこの屋敷には売れるものすら殆ど残っていないじゃないか。それなのにまだ五百万ジュエル以上の借金が残されているんだぞ? どうやって返済するつもりなんだ」ルノーはすっかりがらんどうになった室内を見渡す。「銀行から借りるっていうのはどうかしら?」イレーネはパチンと手を叩い
午前11時半――コルトの町の中心部に到着すると、ルノーは馬車を止めて扉を開けた。「町に着いたよ、イレーネ」そして手を差し伸べた。「ありがとう」ルノーの手を借りて馬車を降りたイレーネは目を見開いた。「まぁ、ここは……」「そうだよ、イレーネが来たがっていた職業紹介所だよ」「まさか、ここに連れてきてくれるとは思わなかったわ。ルノーは仕事が忙しい人だから、職場の近くまでで良かったのに」ルノーが務める弁護士事務所は職業紹介所よりもずっと手前にあるのだ。「何言ってるんだ。そんなはずないだろう? それに君のことだ。恐らく、途中で降ろせばここまで歩いてきていたんじゃないか? ドレス姿の女性を歩かせるわけにはいかないからな。大事なドレスを汚してしまったら困るのは君だ」「あら……分かっちゃった?」肩をすくめるイレーネ。イレーネは薄紫色のツーピースのデイ・ドレス姿だった。このドレスは数少ない彼女のドレスで、面接に挑むための外出着である。「大切なドレスまで大分手放してしまっただろう? もとからシエラ家は貧しい男爵家だったから、君は社交界デビューだって出来なかったじゃないか……今ならまだ間に合う。爵位を手放して、高額で金持ちの商人にでも売ってしまわないか? 俺に任せてくれれば、上客を紹介出来るぞ?」屋敷を手放すことに反対のルノーは最後の説得を試みる。「だから、それは出来ないって言ってるでしょう? ルノーは知らないの? 爵位があるだけで、好条件の仕事を紹介してくれるのよ?」「そんなことくらいは知ってる。仮にも俺は弁護士だぞ?」少しだけムッとした表情を見せるルノー。「幼馴染のあなたが私を心配するのは分かるし、その気持は嬉しいけれど……私は祖父の遺言を守りたいの。それじゃ行くわね。良い仕事が斡旋してもらえることを祈っていて?」「……分かった。行って来いよ」イレーネは笑顔でルノーに手を振ると、ガラス張りの回転扉をおして職業紹介所へ足を踏み入れた――****「え〜と……イレーネ・シエラさん……現在二十歳ですね?」イレーネの前にメガネを掛けた男性職員が、彼女の履歴書に目を通している。「はい、そうです」「……あぁ、なるほど……シエラ家……あまり聞いたことはありませんが男爵令嬢なのですね?」「確かにあまり名門ではありませんが、これでも貴族令嬢の嗜みは
「もっとその詳しい求人内容を教えていただけないでしょうか?」身を乗り出すイレーネに男性職員はメガネをクイッとあげた。「はい、良いでしょう。え〜と、まず場所ですが……『デリア』という町ですね。この町から汽車が出ていますね」「『デリア』なら聞いたことがあります。あの町はここよりもずっと近代化の進んだ町ですよね? 確か汽車で三時間程ではなかったでしょうか?」「ええ、その通りです。勤務時間は……おや? 一応二十四時間体制とはなっておりますが、基本夜の勤務は殆ど無いみたいですね。けれど夜勤が入る場合は別途給金を上乗せしてくれるそうです。仕事内容は面接のときに教えてくれるそうですが……う〜ん……いかがいたしますか?」男性職員は少し首をひねりながらイレーネに尋ねる。「はい、構いません。ぜひ面接を受けさせて下さい」「ええ!? ほ、本当に受けるのですか? 全く仕事内容が不明なのですよ? しかも奇妙な条件ですし……」「面接に行けば詳しく仕事内容を聞かせてくれるのですよね? すぐに紹介して下さい」今にも住むところを失いそうなイレーネにとって、衣食住保証付きの高額給金の仕事はとても魅力的だった。あれこれと選んでいる時間も手間も惜しかったのだ。「分かりました……それでは紹介状を書きましょう。少しお待ち下さい」男性職員は傍らに置いた便箋に、スラスラと文章を起こすと封筒に入れてイレーネに差し出した。「はい、ではこちらの手紙を持ってマイスター伯爵家に渡して下さい。面接日時は特に細かい決まりはなく、平日の十時から十七時までの間に伯爵家に直にお越し下さいと書かれておりますね」「え!? そんないい加減……いえ、そんな大まかなことで宜しいのでしょうか?」イレーネは驚きで目を見開く。「もしかすると先方も早急に人手を捜しているのかもしれませんね。何しろ二百キロ以上も離れたこの町にも求人を出している程ですから」「そうですね。色々なにか事情があるのかもしれませんね。妙な質問をしていまい、申し訳ございません」謝罪の言葉を述べるイレーネ。「いえいえ、そんなお気になさらないで下さい。あ、そう言えば先程の求人欄で気になる箇所が書いてありました」「え? 本当ですか? 教えて下さい」イレーネは再び、身を乗り出した。「もちろんです。え〜と、口が固い方……秘密保持出来る方を望む、とあ
女の子にお駄賃として三百ジュエルを渡してしまったイレーネ。少しでも節約する為に、辻馬車を使わずに屋敷まで歩いて帰ってきた。「ただいま〜」誰も待つ人のいない古びた屋敷に帰ってくると、食卓用の椅子に腰掛けた。「ふ〜疲れたわ……足も痛いし……」履いていたショートブーツを脱ぐと、足のマッサージをしながら壁に駆けてある時計を眺める。「え〜と、今が十時十五分だから……ええ!? 四十五分も歩いてきたのね? どうりで疲れたはずだわ……」ため息をつくとイレーネは履きなれた室内履きに足を通し、二階にある自室に向かった。――カチャ扉を開けて室内に入ると、イレーネは周囲を見渡す。「……本当に何もない部屋になってしまったわねぇ」言葉通り、この部屋にあるのはベッドと小さな文机、それに壁にかけた姿見に衣装箱だけだった。イレーネがまだ子供だった頃は、この部屋はもっと賑やかだった。女の子らしいインテリアで素敵な家具に溢れていた。それに安い賃金でも文句一つ言わずに笑顔で働いてくれていた使用人たちも大勢いた。けれど祖父が病に倒れてからは賃金すら払うこともままならなくなり、全員に辞めてもらうことに決めた。その際彼らに支払える退職金を作るためにイレーネは家財道具の殆どを売り払い、何とか全員にわずかばかりの退職金を工面することが出来たのだった。その後も祖父の治療費の為に売れそうな物は売払い……すっかりがらんどうの屋敷になり、今に至る。「でも、いいわ。これなら引越し準備も特に必要ないもの。さて、明日の準備をしなくちゃ」イレーネは自分に言い聞かせると、早速出立の準備を始めるのだった――**** 翌朝六時――濃紺のボレロとスカート姿のイレーネが姿見の前に立っていた。「うん、いい感じね。我ながら洋裁の腕前が上がったわ。これが以前はドレスだったなんて人が知ったら驚かれるでしょうね」満足そうにくるりと鏡の前で一回転する。昨晩夜なべをして、外出着用の洋服に作り直したのだ。「どうせ、ドレスを持っていても着ていく場が無いのだもの。宝の持ち腐れだったから丁度良いわね」そしてイレーネはボストンバックを持つと屋敷を後にした――****午前七時半――「ふ〜……やっと汽車に乗れたわ」三等車両の空いている座席に座るとイレーネはため息をついた。今朝も彼女は路銀を浮かせるために屋
約三時間かけてイレーネは大都市『デリア』に到着した。駅前の広場は綺麗な石畳で舗装され、『コルト』ではまだ見たこと無い路面列車が走っている。立ち並ぶ建物はどれも石造りで整然と立ち並び、町を歩く人々は誰もがどこか忙しそうに見えた。「本当にここは近代化された町なのね。まぁ、あの大きな建物、なんて背が高いのかしら。十階建てはありそうだわ。あ、あれはもしかすると『車』というものかしら? すごいわ!」ボストンバッグ片手に目の前を走り去っていった黒い車にイレーネは目を見開いた。彼女が住む町は片田舎だ。このような大都市に来るのは生まれて初めてだったので目にする物すべてが新鮮に映った。その時。ボーンボーンボーン駅前にある時計台が十一時を告げる鐘を鳴らした。「あら、いけない。町の光景に見惚れている場合じゃなかったわ。早くマイスター伯爵家の邸宅に伺わないと。お昼時に訪ねては迷惑に思われているかもしれないものね。えっと……伯爵家はここから歩いていけるのかしら?」ポケットから伯爵家の番地を書いたメモを取り出した。「う〜ん……駄目だわ。さっぱり分からない……まずは交番を訪ねてみましょう。確か向こう側に交番があったはずだわ」そこでイレーネは交番へ向かった――****赤い屋根の石造りの交番はすぐに見つかった。「すみません、少々宜しいでしょうか?」イレーネは交番の扉を開けた。「はい、どうされましたか?」カウンターの向こう側のデスクに向かっていた警察官が立ち上がる。「あの、実はマイスター伯爵家に伺いたいので行き方を教えていただけませんか?」「マイスター伯爵家ですか? ええ、教えてあげましょう。あのお屋敷は有名ですからね」まだ年若い青年警察官は笑顔で返事をする。「マイスター伯爵家に行くのであれば、馬車かタクシーを使うのが一番です。路面列車に乗るのでしたら、一番乗り場の『スザンヌ通り』で降りればすぐ目の前に広大な敷地に囲まれたお屋敷がありますよ。そこがマイスター伯爵家です」「いえ、そうではありません。徒歩で向かいたいので道順を教えて頂けないでしょうか?」「ええ!? まさか歩いて行かれるつもりですか!?」大袈裟な程驚く青年警察官。「はい、そうです。大丈夫、足なら自信があります」頷くイレーネに警察官は困った表情を浮かべる。「う~ん……悪いことは言
イレーネがマダム・ヴィクトリアの店を出たのは15時を過ぎていた。「まぁ……もう、こんな時間だったのね。どうりでお腹が空いたはずだわ」祖父の形見である懐中時計を見ると、イレーネはため息をつく。「どうしましょう……このままマイスター家に戻っても、夕食までは程遠いわね。それにしても試着するだけなのに、こんなに体力を使うとは思わなかったわ」1日2食の生活は慣れていた。ただ、今回は慣れない試着作業でお腹を空かせてしまっていたのだった。「何処かで軽く食事を済ませてからマイスター家に戻ったほうが良さそうね。何か食べるものを用意して下さいなんて言ってご迷惑をかけるわけにはいかないし」本来であれば、イレーネはルシアンの内定の妻。リカルドに軽食の要望を伝えれば、すぐにでも食事を用意してもらえる立場に自分があることを理解していなかったのだ。「さて、今度は食事が取れるお店を探そうかしら」そしてイレーネは鼻歌を歌いながら、マダム・ヴィクトリアの店を後にした――****16時半――「……はぁ〜……」書斎で仕事をしていたルシアンがため息をつく。「ルシアン様、またため息ですか? 既に7回目になりますよ? お茶でも飲まれてはいかがですか?」ルシアンにお茶を勧めるリカルド。「リカルド……」「はい、何でしょうか?」「お前は何回俺に茶を飲ませようとする? もうすでに5回目になるぞ?」恨めしそうな目でリカルドを見る。「やはり……おひとりで行かせるべきではなかったのではありませんか?」その言葉に、ルシアンの肩がピクリと動く。「一体、何の話だ?」「とぼけないで下さい、イレーネさんのことですよ。あの方のことが心配で、仕事もろくに手がつかないのではありませんか? 先程から同じ書類ばかり目を通されていますよ」「ち、違う! 書類を見直していただけだ!」リカルドに指摘され、慌ててルシアンは書類を取り替える。「全く、ルシアン様は素直になれないお方ですね……正直にイレーネさんのことが心配だと言えばよいではありませんか? だから本日は外出せずに、こちらでお仕事をされているのですよね? 昼食の時間も心、ここにあらずといった様子でしたし」するとルシアンも言い返す。「そういうお前こそ、イレーネ嬢のことが心配でたまらないのではないか? 今日は用もないのに、何度もエントランスまで
「まぁ! この小切手は……! は、はい! すぐにお包みいたしますね!」「お買い上げ、ありがとうございます!」2人の女性店員はペコペコと頭を下げる。「いいえ。こちらこそ素敵なドレスを選んでいただき、ありがとうございます。このお店に来て、本当に良かったですわ」笑顔のイレーネの姿に、青ざめるのはブリジットとアメリアだった。「ええっ!? ど、どういうことよ! あんな貧乏そうな女が平気で小切手を手渡すなんて!」アメリアがブリジットに小声で詰め寄る。「そ、そんなこと聞かないでよ! 私が知るはず無いでしょう! それにしても……あの女、一体何者なの……だけど……」気の強いブリジットは、店員たちがイレーネにペコペコする姿が気に入らない。「……何だか面白くないわ。これ以上ここにいても不愉快よ、帰りましょう。アメリア」「え? いいの? 彼女に一言も声をかけずに帰っても」「いいのよ。だって私たち、あの女の名前だって知らないじゃない」フンと腕組みするブリジット。今もイレーネは女性店員たちと親しげに会話をしている。「言われてみれば確かにそうね……それじゃ、帰りましょうか?」「ええ、帰りましょう」そしてブリジットとアメリアは談笑するイレーネたちに声をかけずに、店を後にした。もう少し店に残っていれば、もっと驚きの事実を知ることになったはずだったのに……。そんなことは露とも知らず、店員はイレーネに次の商品を勧める。「ところで、お客様。ドレスだけではなく、他にも靴やアクセサリーも当店でそろえられてみてはいかがですか?」「ええ、そうです。当店には有名なジュエリーデザイナーに靴職人も抱えているのですよ?」上客を逃してなるものかと、店員たちの接客は続く。「そうですね……一式、全て揃えられるならこちらでお願いします。私、どうしても自分の価値を上げなければならないので」頷くイレーネ。普段の彼女なら絶対にこのような買い物はしない。しないのだが、今回だけは特別だった。何しろ、ルシアンの祖父に認めてもらうために自分の価値を上げなければならないのだから。「ええ! お任せ下さい!」「私たちの手にかかれば、トップレディにだってなれます!」何とも頼もしい女性店員の言葉にイレーネは笑顔になる。「本当ですか!? ありがとうございます!」こうして、その後もイレーネの買い物
試着室へ入ると、早速イレーネは採寸するために肌着姿になった。すると、2人の女性店員が口々にイレーネを褒め称えた。「まぁ! こんなに細いウェストを見るのは初めてだわ!」「手足も細いのに、足には適度に筋肉がついているし……これなら高いヒールの靴を履いても歩けそうだわ!」「筋肉よりも、スタイル! なんてスタイル抜群なんでしょう! これならコルセットも必要ないくらい!」2人の女性店員は興奮が止まらない。けれど、イレーネのスタイルが良いのは当然のことだった。何処へ行くにも歩いていくし、質素な食事生活をおくっていたのだから。2人の女性店員がイレーネのスタイルを褒め称えている姿をブリジット達は悔しげに見ている。「な、何よ……あんなの。た、ただちょっと細いだけじゃないの……」「だ、だけど出るところは出て、引っ込んでる部分はちゃんと引っ込んでるわよ……」しかし、ブリジットは意地悪そうな笑みを浮かべてアメリアの耳に囁く。「でも、あんな貧しそうな女にこのブティックの服が買えるはずないわ。身の程知らずでこの店に来たのだから、恥をかくに決まっているわよ」「そ、そうよね。買えるはず無いわよね。値段を聞いて驚くあの女の顔が見ものだわ」コソコソと話し合う2人をよそに、店員によるイレーネのドレス選びが始まった。「どうです? こちらのドレスは今最先端のドレスですよ。特にウェストの細さを強調できるドレスです」「こちらのデイ・ドレスはとても上品なデザインです。バッスル部分が特徴なのですよ」次々と着せ替え人形のごとく、様々なドレスを試着させられるイレーネ。しかし、そのどれもがスタイル抜群なイレーネに良く似合っていた。当然、ブリジットとアメリアは面白くない。「ふ、ふん。いくらスタイルが良くたって、買えなければどうにもならないのだから」「ええ、そうよ。あの店員達ったら、ドレスを合わせるばかりで肝心な彼女の懐事情を忘れているのかしら」その後もイレーネの試着は続き……12着目の試着を終えた頃――「あの、もうそろそろこのあたりで大丈夫です」イレーネが女性店員2人に声をかけた。「え? さようでございますか?」「まだまだお客様にお似合いになりそうなドレスが沢山ありますのに……」女性店員たちは残念そうな表情を浮かべる。「ええ。それで今まで試着したドレス、合計でおいくら位
ブリジットとアメリアが揃って店に入ると、2人の女性店員がすぐに駆けつけてきた。「まぁ、これはようこそお越しいただきました」「本日もドレスを御覧になられるのですね?」女性店員達は交互にブリジットとアメリアに話しかける。「ええ。そうだけど……でも、ドレスを選びに来たのは私たちではないわ。彼女よ」 ブリジットは背後にいるイレーネを振り返る。「は……? こちらの……女性ですか……?」「冗談ではありませんよね……?」メガネをかけた女性店員はクイッとフレームをあげてイレーネを見つめる。「はい、冗談ではありません。本気で、こちらのブティックでドレスを買いたいと思います。何しろ、こちらはマダム・ヴィクトリアという一流デザイナーの方がデザインしたドレスなのですよね? 一流のドレスは着る人を選ぶことは無い、一流だからこそ、誰にでもぴったり似合うドレスを作れるのですよね? 是非、私のような者でも着こなせるドレスを選んでいただきたいのです。こちらのお店で!」イレーネはキラキラ目を輝かせながら、熱く語る。そんな彼女に圧される4人の女性。「ま、まぁ……確かに、マダム・ヴィクトリアはこの町一番のデザイナーではありますが……」「そうですね。一流の店は、誰にでも似合おうドレスを提案できるからこそ、一流なのかもしれませんし……」自分たちの店を一流と褒められ、女性店員たちは気を良くしている。「折角来店されたのですから、選んでみましょうか?」「そうですね、試着だけでもいいかもしれませんね」そこで女性店員たちはイレーネに提案してきた。「本当ですか? ありがとうございます!」笑顔でお礼を述べるイレーネ。「ええ。ではどうぞ奥の試着室でまずは採寸いたしましょう」「ご案内いたしますね」「はい」イレーネは女性店員に連れられ、試着室へ向かう。そしてそんな様子を唖然とした目で見つめるブリジットとアメリア。「ちょ、ちょっとどういうこと……てっきり断られるかと思ったのに」「単なる貧しい女だと思っていたけど……中々口が上手いわね……」ブリジットとアメリアはコソコソ話しだした。「ブリジット、私たちはどうすればいいのよ? 何だかおかしなことになっちゃったわね。もう帰る?」「何言ってるのよ、アメリア。これからが面白いんじゃない。どうせこの店のドレスは高くて手が出せない。買え
「さぁ、ここがこの町一番のブティックよ。どう?」ブリジットが両手を腰に当て、背後にいるイレーネに声をかけた。「まぁ……! なんて大きなブティックなんでしょう。それに、沢山のドレスが並んでいますね」イレーネはガラス窓から店内を覗き、感嘆の声を上げる。「それはそうよ。このブティックは私たちのような貴族しか買えない高級ドレスばかりなのよ。何と言っても、ここはマダム・ヴィクトリアのお店なのだから」ブリジットの連れの黒髪女性が自慢気に語る。「マダム・ヴィクトリア……? そんなに有名な方なのですか?」「あなたって、本当に何も知らないのね? まぁ、そんな貧相な服を着ているのだから知るはずもないでしょうけど。マダム・ヴィクトリアの作ったドレスは今若い貴族女性たちの間で流行の最先端をいってるのよ。彼女のドレスを着るだけで、自分の価値を上げられるのだから」その言葉にイレーネは目を丸くするす。「そうなのですね? 自分の価値を上げられるなんて……素晴らしいです。決めました、私もこのお店で服を買うことにいたします。ご親切にアドバイスをいただき、どうもありがとうございます」お礼を述べるイレーネに、当然ブリジットと連れの女性は驚いた。「は? あなた、一体何を言ってるの? マダム・ヴィクトリアは一流デザイナーだから、それだけドレスの値段が張るのよ? あなたみたいな貧乏人が買えるはず無いじゃないの! 店内に入っても追い払われるだけよ」黒髪女性が目を吊り上げる。するとブリジットが止めに入った。「いいわよ、それじゃ私たちが一緒にお店に付き添ってあげるわよ」「え? 何を言ってるの? ブリジット」「落ち着いて、アメリア」ブリジットは連れの黒髪女性、アメリアの耳元に囁く。「どうせ、彼女は店に入ったところで追い出されるに決まってるわ。だから私たちが付き添って店に連れて行くのよ。どうせお金なんか持っていないのだから買えるはず無いじゃない。彼女に恥をかかせて、身の程を教えてあげましょうよ」「なるほど……それは面白そうね?」「ええ、でしょう?」2人の令嬢がコソコソ話をする様子を、イレーネは首を傾げて見ている。「話は決まったわ。私たちが一緒にお店に行ってあげるわよ。ついてらっしゃい」ブリジットがイレーネに声をかけた。「本当ですか? ご親切にありがとうございます。正直、私一
「しかし……本当に一人で出かけてしまうとは……」ルシアンは2階にある書斎の窓から、イレーネが門を目指して歩く後ろ姿を見つめてため息をつく。「ええ、全くイレーネさんの行動には驚きです。馬車まで断るのですから」リカルドの顔にも心配そうな表情が浮かんでいる。「だが、馬車を出すように命じるにも……説明できなかったしな……早いところ全員に彼女を紹介しなければ……」しかし、あくまでこれは1年間の契約結婚。そんな相手を使用人たちに堂々と自分の結婚相手だと説明しても良いものかどうか、ルシアンは悩んでいた。「もう、事実は伏せて結婚相手だと伝えるしか無いのではありませんか? それに……」「それに? 何だ?」途中で言葉を切ったリカルドにルシアンは尋ねる。「いえ、何でもありません。さて、それでは外出準備を始めましょうか?」「ああ、そうだな。先方を待たせるわけにはいかないからな」ルシアンは立ち上がると、書斎机に向かう。その姿を見つめながらリカルドは思った。ひょっとすると、この結婚は本当の結婚になる可能性もあるのではないかと……。**** その頃、イレーネは――「どうもありがとうございました」辻馬車で駅前に到着したイレーネは馬車代を支払うと、『デリア』の町に降り立った。「本当に、この町は『コルト』と違って大きいわ……」辺を見渡せば、大きな建物が綺麗にひしめき合っている。町を歩く人々も大勢いた。「さて、ひとりで町へ出てきたのはいいけれど……洋品店は何処にあるのかしら」キョロキョロと周囲を見渡す。「町へ出れば、何とかなると思ったけど……交番で尋ねてみようかしら……」そこまで言いかけ、首を振る。「いいえ、迷惑はかけられないわ。自分で何とかしましょう」そしてイレーネはひとりで洋品店を探すことにした。**「まぁ、なんて美味しそうなケーキ屋さんかしら。あら? あの店は本屋さんだわ。あんなに大きい本屋さんがあるなんて、流石は大都市『デリア』ね」あれから30分程の時間が流れていた。今や、イレーネは本来ドレスを新調するという目的を忘れて町の散策を楽しんでいた。「あら? ここは雑貨屋さんかしら?」ショーウィンドウにへばりつくように、窓から店内の様子を伺っていると女性たちの会話が近づいてきた。「それでこの間ルシアン様に会いに行ったのに、外出中で会えなか
それからきっかり1時間後――イレーネはリカルドの案内でルシアンの書斎にやってきていた。「イレーネ嬢、わざわざ足を運ばせてすまないな」書斎に置かれたソファに向かい合わせで座る2人。「いいえ、どうぞお構いなく。丁度暇を持て余していたところでしたので。いつもなら庭で畑作業をしている時間でして……お恥ずかしいことに時間の潰し方を良く知らないものですから」「な、何だって? 畑仕事?」その言葉に耳を疑うルシアン。「はい、そうです。食費を浮かす為に家庭菜園をしておりました。幸い、庭がありましたので季節ごとに様々な野菜を育てていたのですよ? 今の季節ですと、玉ねぎ、人参が収穫できます。採れたての野菜は甘みもあって、とても美味しいんです」「そ、そうだったのか……?」傍らに立つリカルドはハンカチで目頭を押さえている。「……うっうっ……ほ、本当に……なんて健気なイレーネさん……」その様子を半ば呆れた眼差しで見つめていると、イレーネが声をかけてきた。「あの、それで私にお話というのは?」「あ、ああ。そのことなのだが、イレーネ嬢に支度金を払おうと思って呼んだのだ」「まぁ……支度金ですか?」イレーネの目がキラキラ輝く。「そうだ、そのお金で服を新調するといい。さて、何着あればいいだろうか……?」「3着もあれば十分です」「な、何!? たったの3着だと!?」「はい、外出着は3着もあれば十分です。勿体ないですから。普段の服は私が持ってきたもので十分ですし」「イレーネ嬢、それは……」ルシアンが言いかけるよりも早くリカルドが反応した。「いいえ! それは駄目です! イレーネさん! 3着と言わず、その10倍……いえ、100倍は作るべきです!」「何だって!? 300着もか!?」これには流石のルシアンも目を見開く。「まぁ! 300着ですか? いくら何でも300着なんて無謀です。本当に、最低限揃えてもらうだけで十分なのですが……」遠慮するイレーネにリカルドは畳み掛ける。「イレーネさん。マイスター伯爵家は、とっても大金持ちなのですよ? 何しろ世界中に取引先がある貿易会社を営んでいるのですから何の遠慮もいりません。欲しいものはどんどん仰って下さい!」「お、おい……! リカルド、お前は一体何を勝手なことを……!」そこまで言いかけた時、ルシアンはこちらをじっと見つ
食後の紅茶を2人が飲み終わる頃、ようやくリカルドがダイニングルームに戻ってきた。「リカルド、お前は今まで一体何処に行っていたのだ?」ルシアンがじろりと睨みつける。「はい、それが……厨房に顔を出して、2人分のお食事を用意して貰いたいと伝えたところ……その場にいた使用人達に囲まれてしまいました。それで、イレーネさんのことを根掘り葉掘り尋ねられてしまって……」「何だって……それで何と答えたんだ?」「そ、それは……」リカルドは興味津々の眼差しで自分を見つめるイレーネに視線を移す。「私の口から無責任なことを伝えるわけにはいかないので、ルシアン様から後ほど直接話があるので待つように伝えました」何とも無責任な台詞を口にするリカルド。ルシアンが切れたのは言うまでも無い。「リカルド! それでは俺に全て丸投げしているも同然じゃ……」そこでルシアンは口を閉ざす。何故ならイレーネがじっと自分を見つめていたからだ。女性の前で声を荒げることをしたくないルシアンは、ゴホンと咳払いをするとリカルドに命じた。「リカルド。イレーネ嬢は紅茶を飲み終えたようだし……ひとまず今は部屋に案内してあげてくれ。そうだな……1時間後、俺の書斎に来て欲しい。まだまだ話し合わなければならないことが山積みだからな」「はい、かしこまりました。私が責任を持ってイレーネさんをお部屋までご案内します」笑顔で返事をするリカルドにルシアンは釘を刺す。「言っておくが、お前にはまだ言いたいことが残っている。イレーネ嬢を部屋に案内したらすぐにここへ戻ってこい」「はい……」落ち込んだ様子で返事をするリカルド。そこへイレーネが会話に入ってきた。「ルシアン様、私なら大丈夫です。部屋の場所は覚えているので1人で戻れます」「いや、しかしだな……万一、リカルドのように使用人に捕まってしまえば……」ルシアンは言葉を濁す。「そのことなら御安心下さい。私、こう見えても口は固いです。何か問われても、ルシアン様から伺って下さいと伝えますから」「そ、そうか……?」引きつった笑いを浮かべるルシアン。(やはり、2人とも……俺に全て委託するというわけだな……)「分かった。では申し訳ないが……イレーネ嬢は一旦席を外してくれ。リカルドと2人で話をしたいからな。そして1時間後、今度は俺の書斎へ来てくれないか」「はい、ル
(何だか……今朝は随分給仕の人数が多いな)ルシアンはダイニングルームで給仕をする使用人たちを見渡した。普段なら給仕の人数は1人、ないし2人。それなのに今朝に限っては違った。2人のフットマンに、3人のメイドまでいるのだ。全員、明らかにイレーネを意識しているのは明白だった。「紅茶はいつお持ちしますか?」メイドがイレーネに尋ねる。「そうですね、ルシアン様はいつお飲みになっておりますか?」突然話をふられたルシアンは戸惑いながらも答えた。「え? 俺は普段は食後にもらっているが?」(あのメイドは何故そんなことを聞いてくるのだ? 普段は何も言わずに食後に紅茶を淹れてくるはずなのに! 大体、どこで俺とイレーネ嬢が朝食を一緒にとることがバレてしまったんだ? リカルドは何をしている!)一言、リカルドに文句を言ってやりたいところだが肝心の彼は生憎不在だ。(くそ! ここ最近、勝手な真似ばかりしおって……後で呼び出して説教してやらなければ……!)ルシアンのどこか落ち着きのない様子をみて、イレーネが首を傾げる。「ルシアン様、どうかされたのですか?」「え? あ……何でも無い。ただ……何故、今朝に限ってこんなに給仕が集まっているのか不思議に思ってな」その言葉に、使用人たちが一斉に肩をビクリとさせる。「もう、全ての料理を並べ終えたのだろう?」傍らに立っているフットマンに尋ねるルシアン。「は、はい。ルシアン様。食事は全て提供させていただきました」「そうか……なら、お前たちはもう席を外してくれ。彼女と2人きりで食事をしたいからな」ルシアンはゆっくり、全員の顔を見渡した。「分かりました……それでは我々は一旦席を外させていただきます……」使用人たちはチラチラとイレーネに視線を送りながら、ダイニングルームを出て行った。――パタン扉が閉じられるとルシアンはため息をついた。「全く……好奇心旺盛な使用人たちだ。さて、それでは食べようか」「私も好奇心旺盛ですよ? それにしてもこのマイスター家には大勢の人たちが働いていらっしゃるのですね。私の働く隙もないほどです。……まぁ! 本当にこちらのお食事は美味しいですね」料理を口にし、笑みを浮かべるイレーネ。「そうか、口にあって何よりだ。だが、メイドの仕事は考えないでくれ。君の役目は俺の妻を演じることなのだから。実は……